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5月12日 年間第6月曜日 ヤコブ1:1-11 マルコ8:11-13
2008年05月12日



 とても不思議なマジックをみた時、驚きを隠せませんが、驚きが大きければ大きいほど、今度はそのタネが知りたくなるものです。でもマジックの魅力はわからなくてミステリアスなところにあるものだから、もしタネがわかってしまうとその巧妙さに感心するよりも、「なんだそんなことかぁ」とがっかりしたり、下手をすると中にはまんまと騙されたと腹立たしい思いを抱いてしまう人もいるようです。とにかくさっきの新鮮な驚きは一瞬にして色褪せてしまいます。
 ファリサイ派の人々はイエス様が本当の「メシア」か知りたくてしるしを求めています。これは、マジックで言う所の種明かしをしてくれと言っているようなことではないでしょうか。だからイエス様が彼らの要求に応えて実際にしるしを見せたところで満足し、それでイエス様が「メシア」であると信じるか疑問を感じます。むしろ更に疑いを深めることになり、さらに敵対心を強めるのではないかと思うのです。(実際に彼らは後々殺意を抱き、イエス様を十字架に掛けて殺してしまいました・・・)
 私たちは、イエス様が「メシア」であるのかないのかと暴くことではなく、いささかも疑わずイエス様が示される慈しみと憐れみそして愛情を神様からのものであると素直に受け止め、受け入れることが求められているのです。
 「疑う者は、風にふかれて揺れ動く海の波に似ています。そういう人は、主から何かいただけると思ってはなりません。心が定まらず、生き方全体に安定を欠く人です。」(第1朗読)

mickey sdb

5月9日 復活節第7金曜日 使徒言行録25:13-21 ヨハネ21:15-19
2008年05月09日


 イエスは三度も「わたしを愛しているか」とペトロに問います。ペトロは「はい主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです。」と答えます。はじめの二回は、イエスは“アガペー”の愛を問われ、それに対してペトロは一回目から一貫して“フィリア”の愛で答えます。
 あまり細かい詮索はしなくてもいいと思いますが、イエスが問う愛は神の無償の愛です。ペトロはそれに対して人間間の愛で答えます。ここでは、わたしたちの信仰が問われています。わたしたちの信仰が神の愛に答えるものであるかどうかが問われています。
 「わたしを愛しているか。」イエスはわたしたちにもペトロに対してと同じように信仰の根本を問うています。「イエスを愛しています」。これ以上の簡潔な信仰告白はないのではないのでしょうか。

kita

5月8日 復活節第7木曜日 使徒言行録22:30,23:6-11 ヨハネ17:20-26
2008年05月07日



 イエスが私たちのために天の父である神に祈っています。
 イエスが神から与えられている栄光、恵を私たちにも与えられるように願っています。
 その祈りは私たちが色々な誘惑によって分裂している状態から立ち返り、もう一度神と共に一つになることを勧めているのです。イエスが神と一つであるように、それゆえ大きな栄光に包まれているように、私たち罪人に心を一つにして生きることを勧めています。
 イエスは神に祈る姿を見せながら、私たちに必死になって伝えようとしているのです。その祈りの中に、私たちも神様に願いましょう。神に向かって歩み続けられるように。分裂し諍いがある世界を一つにし、誰もが平和に安心して生活ができますように。アーメン。

POOH

5月7日 復活節第7水曜日 使徒言行録20:28-38 ヨハネ17:11b-19
2008年05月07日



 今日の福音に「ひとつになる」という言葉が出てきます。この「ひとつになる」とは、ただ単に、漠然と集まるという意味ではありません。御父を中心に据えて集まるという事です。そして、もうひとつの言葉にも注目したいのです。それは「彼ら」という言葉です。「私」が神と一致することに意味があるのではなく、「私たち」が共に主イエスに導かれて御父へと向かい、御父を中心としての一致を与えられ、一つになること、それこそが主イエスの願いであり、御父の求めであるということです。そして、ここで話されている「彼ら」とは私たちであり、教会のことです。
 そこで、今日振り返ってみたいのです。私たちの教会は、私たちは本当に神に依って一致しているのでしょうか、他の様々なモノを中心に据えてはいないでしょうか。

someone

5月6日 復活節第7火曜日 使徒言行録20:17-27 ヨハネ17:1-11a
2008年05月06日



  「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです」。

 ある人を「知っている」という時、二つの意味が考えられます。一つは、知識として人について知っているということ、そしてもう一つはその人を見、実際に出会い、話しをすることで、その人そのものを知っているということです。今日の福音で言われている「神を知り、イエスを知る」ということは、もちろん後者の方を指しています。私たちは神について、イエスについて、知識として知っているだけでは足りません。実際に出会い、体験することによって本当の意味で神を、イエスを「知っている」者となるように招かれています。

 聖書のみ言葉、秘跡、また日常の生活の中で私たちに与えられている恵みの出来事を通して、「私たちは神を知っている、イエスを知っている」という確信を得ることができますように。

missin

5月5日 復活節第7月曜日 使徒言行録19:1-8 ヨハネ16:29-33
2008年05月05日



 「あなたがたは散らされて自分の家に帰ってしまい、わたしをひとりきりにするときが来る。いや、既に来ている。」
 
 この言葉は、もちろん、イエスの受難の際にほとんどの弟子たちが逃げてしまい、イエスの十字架のもとにいなかったことを指しています。では、この言葉は今のわたしたちにとって、どのような意味で考えることができるでしょうか。
 現代のもつ大きな病の一つは、「無関心」であると言われます。マザーテレサが戦った最大の敵も、この「無関心」であったということができます。別な言葉で言うなら「見て見ぬふりをすること」です。自分の安全を確保することは非常に重要な課題です。しかし一方で、様々な意味において自分の安全のみを関心事とするようになったとき、わたしたちは「自分の家」から出ず、他者の痛みに無関心になり、結局イエスを「ひとりきり」にすることになります。
 すべてのことに関心を持つことは、事実上不可能です。しかし、小さなことでも何かできることから、「見てみぬふりをする」ことを超えて、行動を起こしたいものです。そのためにも、まずは「独りぼっちのイエス」を探すことから始めたいものです。

John Goto

5月3日 聖フィリポ 聖ヤコブ使徒 祝 1コリント15:1-8 ヨハネ14:6-14
2008年05月03日



 イエス様はフィリポに「(あなた方は)すでに父を見ている」とおっ しゃいます。イエス様を見ることによって御父を見るとはどういう意味でしょうか。それはイエス様の生き方の中に父の意志を見ることができるということです。
 イエス様は生涯を通して完全に御父の望みに従って生き、またその生き様を人々に示されました。直接御父を見ることがで きなくても、イエス様の生き方に従うことによってあなた方も御父の望 む生き方ができるのだよ、ということがイエス様のメッセージなのです。
 「わたしが父の内のおり、父がわたしの内におられる」という言葉 の中には三位一体の深い交わりが神様の中だけにとどまるのではなく、私たち一人一人に向かっており、私たち一人一人を包み込んでいること も含まれているわけです。本当にありがたいことだと思います。

Daniel

5月2日 聖アタナシオ司教教会博士 記 使徒言行録18:9-18 ヨハネ16:20-23a
2008年05月02日



 「子どもが生まれると、一人の人間が生まれ出た喜びのために、もはやその苦痛を思い出さない。」
 私は産みの苦しみを体験したことがない。聖書には「陣痛のような苦しみ」などの表現が出てくることがある。それを体験した女性はこの表現がよくわかるのかもしれない。それは命がけの行為でもある。
 イエスも産みの苦しみを体験したのではないが、それを超える鞭打ちと磔の苦しみを体験された。そして、何よりも人々に裏切られ、見捨てられ、孤独の苦しみを体験された。しかし、その苦しみの後に、この上ない喜びのうちに入られた。そして、弟子たちに再び現れてくださり、弟子たちは、よろこびに満たされたのである。そのよろこびは、子どもの誕生のよろこびのように、それまでの苦しみを忘れさせるほどの大きなものである。
 今日のみ言葉では、イエスがそのよろこびが必ずあることを弟子たちに語られた。このみ言葉を読んでいる私たちにも、想像を越えたよろこびが待っていることを伝えてくださっている。だから、本当に苦しいとき、イエスの十字架を思い、そのむこうにある復活のよろこびを希望しながら、生きていこう。

noby

5月1日 復活節第6木曜日 使徒言行録18:1-8 ヨハネ16:16-20
2008年04月30日



 今日の福音でイエスは、ご自身の受難の後、弟子たちと再び出会うことを告げられました。けれども、弟子たちはすぐにイエスの言われたことを理解することはできませんでした。ここに人間の本性というものが現れています。弱さです。弟子たちのイエスに対する無理解は、彼らの弱さから来ています。
 人間の弱さは、困難や危険に直面したときに現れるものです。そして、人はその弱さから悲しみのうちに閉じこめられてしまいます。つまり、神の恵みの手が全く見えなくなってしまうということです。私たちは神の恵みをどのようにして、分かることができるでしょうか。イエスは弱い弟子たちのことを受け入れました。気の遠くなるほどの忍耐と愛をもって、彼らを神の理解へと導かれたのです。恵みは、すぐに分かるものではないかもしれません。けれども自分が弱くても、あきらめないで、神を求め続けることが大切です。イエスのように、あきらめないで忍耐をもって、求め続けるならば、神が私たちを本当の理解へと導いてくださるのではないでしょうか。

NICCHI

4月30日 復活節第6水曜日 使徒言行録17:15,22-18:1
2008年04月30日



   世界中どこでもそうと言えますが、特に我が日本においてキリストの福音を述べ伝えることは決して簡単なものではありません。
 今日の第一朗読にあるように、アテネでパウロも福音宣教の困難さを体験したといえるのではないでしょうか。アテネ人をほめた後に「あなたがたが知らずに拝んでいるもの、それをわたしはお知らせしましょう」とパウロが宣言した時に、確かに、聴衆は耳を傾けてくれたようでしたが、「神はこの方(キリスト)を死者の中から復活させて、すべての人にそのことの確信をお与えになった」と言った時、「それについては、いずれまた聞かせてもらうことにしよう」というさびしい返事がもどってきました。
 福音を述べ伝える時に、人が望むようになることは少ないです。アテネでのパウロの宣教は失敗のように見えますが、「しかし、彼について行って信仰に入った者も、何人かいた」と記されています。その“何人か”というのが神の恵みの表れです。
 華々しいことを期待せずに、すべてを神に委ねながら、み言葉の種を蒔き続け、福音宣教に励みましょう。

Loro Piana

4月29日 聖カタリナ(シエナ)おとめ教会博士 記 使徒言行録16:22-34 ヨハネ16:5-11
2008年04月28日


 「わたしが行けば、弁護者をあなたがたのところに送る。・・・」

 第1朗読の使徒言行録では、牢に投げ込まれたパウロとシラスに弁護者が送られている様が記されていました。
 弁護者と訳されている言葉(原語)『パラクレートス』は、文字通りに訳すと「誰かを助けるために呼ばれたもの」です。イエス様は、今この時代に生きている私たちにもこの助け手を送ってくださっているはずですが、気づくことがあるでしょうか。
 「助け手」がイエス様によって私たちに送られている事実があると同時に、実は私たち自身が誰かの「助け手」として送られて(遣わされて)いる事実もあることを意識してみましょう。

mickey sdb

4月28日 復活節第6月曜日 使徒言行録16:11-15 ヨハネ15:26-16:4a
2008年04月28日

 「人々はあなたがたを会堂から追放するだろう。しかもあなたがたを殺す者が皆、自分は神に奉仕していると考える時が来る」16章2節

  ユダヤ人のローマ帝国への激しい抵抗運動の際、ナザレ派といわれた、後のキリスト者たちは武器を取らず中立を守りました。その結果、特にエルザレム陥落後、ユダヤ人たちの激しい憎しみをかうことになりました。その歴史を思い出しながら、彼らは実感をもってこのみ言葉を読んだに違いありません。
   なぜ、そうなるのか。その理由がその直後に書かれています。
 「彼らがこういうことをするのは、父をもわたしをも知らないからである」
  父をしること、イエス・キリストをしることがなければ、とんでもない勘違いと間違いをおかすことになる。したがって、下記のことを十分認識すべきであろう。
<御父のもとから遣わされる聖霊がキリストについて証ししてくださる。その証しによらなければ、使徒たちの証しも私の証しもむなしい。聖霊は御父のもとから出る真理の霊だからである>

M.M.Joseph

4月25日 聖マルコ福音記者 祝 1ペトロ5:5b-14 マルコ16:15-20
2008年04月25日

今日は聖マルコの祝日です。かれは、ペトロから教えのてほどきを受け、イエスの福音について語ってもらったりしていました。マルコによる福音書は、自分が見たイエス、ペトロたちが語り伝えたことをまとめたものです。
 さて、この福音に述べられているしるしには、信じがたいものが多々あります。しかし、イエスが復活された後の弟子たち、特にペトロの豹変ぶりを目の当たりにしたとき、マルコには納得させられたことでしょう。

 自閉的な思いに凝り固まった者は、捕らわれから解放されました。
 解放された者はペトロを含めて、神を賛美します。新しい言葉です。
 解放された者は先入観なしに物事を見、判断できます。新しい価値観によるものです。
 解放された者は、喜びを人々に伝え、病める者を癒すことができるのです。

 これらのことは,主が共に働いてくださるからです。ミサも、「主はみなさんと共に」の言葉で始まります。

4月24日 復活節第5木曜日 使徒言行録15:7-21 ヨハネ15:9-11
2008年04月24日

  「父が私を愛されたように、私もあなたがたを愛してきた。私の愛にとどまりなさい」(ヨハネ15.9)

 人間は感情を持っていますから、親が子供を愛するように、愛の感情は自然に沸いてきます。また、憎みとか、ねたみも自然の感情として沸いてきます。しかし、イエスがお望みになっているのは、ただ自然の感情としての愛ではありません。自然の感情では、気の合わない人や気難しい人、迷惑ばかりかける人、まして、罪人や敵は愛せません。
 ところが、イエスが言われた愛は、「新しい掟」としての愛、神と結ばれた愛、イエスを基準にした愛なのです。その新しさは、自然の感情を乗り越えた迫害する者のために祈る愛、「善いサマリア人の例え話」のような愛、敵だと思える人の幸せをも願う愛なのです。
 イエスが愛したように愛することは、確かに並大抵のことではありません。「そんな愛は実行できそうにもありません」と、しり込みしたくなるような愛の要求です。愛の掟は、単なる命令や義務というよりも、むしろ、キリスト信者の生き方の根本原理として与えられたものだと言えるでしょう。その愛の究極の根拠は、私達が愛される値打ちもなかった罪人であった時に、神が先に私達を愛してくださったところにあるのです。

坂梨四郎

4月23日 復活節第5水曜日 使徒言行録15:1-6 ヨハネ15:1-8
2008年04月23日

 「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。」

 今日の福音の箇所の中で、「つながって」と言う言葉が9回も繰り返し使われており、これがキーワードであることがわかります。
 人は誰にとっても「つながり」が大切です。わたしたちのとっての基本的な「つながり」は「家族」だと言えるでしょう。そしてさらに根本的な「つながり」はと言えば、それは「神様とのつながり」ではないでしょうか。
 イエス様は「つながっていないとなにも出来ない」と言われております。確かにそうです。それに、このつながりをないがしろにする生き方に、幸せをもたらす実りは期待できないでしょう。しかし、この「家族のつながり」や「神様とのつながり」を私たちが普段どれだけ大切にしているかを振り返ると反省せざるを得ません。
 この「つながり」をもっと意識し大切にしていけるように祈りたい。

mickey sdb

4月22日 復活節第5火曜日 使徒言行録14:19-28 ヨハネ14:27-31a
2008年04月22日

 イエス様と弟子たちは過ぎ越しの祭の時に「最後の晩餐」、つまりお別れパーティーをしていたわけですが、弟子たちは心を騒がせていたようです。これから一体何が起こるのか、自分たちの師匠が何処へ行ってしまうのか、不安を感じざるを得ませんでした。イエス様自身もこれから起こるであろう受難については全て知っておられたわけですが、そのような状況の中で「平和」を口にされているのです。
 イエス様の言われる「わたしの平和」とは何でしょうか。メルギブソン監督作品の「パッション」という映画をご覧になったでしょうか。ゲッセマネの園でイエス様が祈られる場面から、墓に納められるまでの12時間の出来事、イエス様の受難を描いた作品です。その12時間の出来事の中には「平和」はありませんでした。苦しまれるイエス様の姿だけです。しかし、映画の最後の最後、本の数秒間、イエス様の平和に満ちた顔が現われます。復活されたイエス様の顔は、平和に満ちておりました。
 「キリストの平和」は復活に裏打ちされたもです。神様への絶対の信頼、その心から出てくるものなのでしょう。

mickey sdb

4月21日 復活節第5月曜日 使徒言行録14:5-18 ヨハネ14:21-26
2008年04月21日

 「わたしの掟を受け入れ、それを守る人は、わたしを愛する者である」

 「わたしを愛する人はわたしの言葉を守る。」

 わたしたちにとって、イエス様を愛している証しは、彼の掟、言葉を守り行うことだと言うことがわかります。
 イエス様の別の言葉で、「わたしの母、わたしの兄弟とは、神の言葉を聞いて行う人たちのことである」(ルカ 8:21) というのもあります。実にマリア様がそうでした。つまりこのことから、マリア様がいかにイエス様を愛していたかもうかがい知ることが出来ます。
 マリア様にならって、私たちもイエス様の掟・言葉を守り実行することによってイエス様への愛を示し、且つ深めていくように致しましょう。

mickey sdb

4月18日 復活節第4金曜日 使徒言行録13:26-33 ヨハネ14:1-6
2008年04月18日
 「私は道、真理、命」
 山を登るとき、目指す頂上は唯一つですが、実に多くの道があります。
しかし、ちゃんとした道を通らなければ迷い込んだりしてしまい、
頂上にたどり着くことは出来ません。
 人は皆、天国(真の幸せ)を目指して歩んでいますが、そこにたどる道にも
同じことが言えるのではないでしょうか。
 「私は道、真理、命。私を通らなければ誰も父のもとには行くことが出来ない」と
イエス様ははっきりと言われています。
私たち自身、また全ての人が、その道を見つけ見失うことがないように、いつも真理の道、命の道を、
たとえゴルゴタへの道のように時に苦しくても歩み続けることが出来るように祈りたいと思います。
mickey sdb
4月17日 復活節第4木曜日 使徒言行録13:13-25 ヨハネ13:16-20
2008年04月17日
  「わたしはある」という表現は、出エジプト記の3章に出てくる神の名に関連しています。
「わたしはある。わたしはあるという者だ。
(中略)イスラエルの人々にこう言うがよい。
『私はある』という方がわたしをあなた方に遣わされたのだと」(出エジ3・13~14)。
神はまことに「ある」方なのです。

 ヨハネ福音書は、この「わたしはある」という表現を
「わたしは~である」という補語を入れる形でイエスの姿を表します。
「~」には命のパン、世の光、羊の門、良い羊飼い、復活、命、道、真理、
まことのぶどうの木、が入ります。

 事が起こるとき、つまり受難と死、そして復活が起こるとき、わたしたちは
イエスがまとこの神で「ある」ことを悟ります。       
YS

4月16日 復活節第4金曜日 使徒言行録13:26-33 ヨハネ14:1-6
2008年04月16日
 私が来たのは、この世を裁くためではなく、この世を救うためである。
 イエスさまのこのお言葉を真剣に考えたことがあるでしょうか?
確かに私たちにとって、慰めの多い、力強いお言葉です。
そしてか弱い私たちの信仰生活をいろいろ手をつくして、まもり支えて下さっています。 
しかし、よく覚えていなければならないことは、いつか私たちがこの世を去って、後の世に入れば、
その瞬間に、裁きの座に立たねばならない、ということです。そこではイエス様は、正義の神として、
すべてを裁くのです。
一片の増し減らしもなく、徹底的に、容赦なく。
本当に恐ろしいことです。
 私たちは、今のうちに、そうならないように力を貸して下さいと、お祈りすると同時に、
私たち自身も力を尽くすように努めましょう。
RSDB